カニ歩き映画ブログ

谷越カニが見た映画について書いてます

タバコ映画を18禁にするだなんてとんでもない

喫煙場面ある映画は成人指定を WHOが勧告

WHO=世界保健機関は、タバコを吸うシーンがある映画などについて「世界の若者たちを喫煙に誘導している」として、各国に対して成人向けに指定するよう勧告しました。
WHOは1日、タバコに関する報告書を発表し、タバコの広告の規制が世界各国で強まる一方で、映画やドラマには規制がないと指摘しています。そのうえで、タバコを吸うシーンがある映画などは「世界の大勢の若者たちを喫煙に誘導している」として、映画などの登場人物に影響を受けて未成年が喫煙を始めるのを防ぐために、各国に対して、喫煙シーンがある映画などを成人向けに指定するよう勧告しています。
WHOによりますと、アメリカでは2014年のハリウッド映画のうち喫煙シーンがある作品が40%余りに上ったほか、喫煙を始めた未成年のうち37%が映画などをきっかけにタバコを吸い始めたという調査結果もあるということです。
日本でも子どもが見るアニメ映画などで喫煙シーンがあり、WHOは、こうした映画などを成人向けに指定するよう各国に勧告することで、未成年の喫煙を抑えたいとしています。

喫煙場面ある映画は成人指定を WHOが勧告 NHKニュース

 ですって。

なんだかヘイズ・コードのことを思い出しました。1934年に施行され、68年に廃止されたアメリカ映画を規制するルールのことで、性、ドラッグ、暴力描写はオールNG。30年代初頭に大流行したギャング映画が割りを食った反面、ソフィスティケイテッド・コメディやフィルム・ノワールといったジャンルを生み出しました。

規制の隙間を突く新たな表現が生まれたわけですけど、たばこを規制してもいい映画やジャンルが新たに発生するとは思えません。喫煙シーンを子供にみせないように大人っぽさを表現することに躍起になるような作家ははたしているのだろうか?

例えば、ジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』なんてのはたばこが効果的に使われた映画の典型だと思うんですよ。ジャン・ピエール・ベルモンドが煙たいたばこを満足気にふかしてこそ『勝手にしやがれ』なわけです。

あと、『レザボア・ドッグス』の冒頭のシーン。アヴァンタイトル前の男たちの会話を演出するのは内容のくだらなさとたばこです。真っ昼間からいい年の男たちが雁首揃えて駄話。手にはタバコ。彼らがカタギではないことを示唆すると同時に興味が湧いてきます。このろくでなし共は何者なんだ?観客の興味を引くシーンとして秀逸です。

個人的に忘れられないのは『田園に死す』におけるタバコの役割です。冒頭からカラーで青森の田舎町での奇妙な風景が映し出されますが、これが主人公が制作した映画の一部だとわかった後(『R100』みたいな感じ)、画面が白黒に変わり、主人公と評論家がスナックで交わす

「もし、君がタイムマシーンに乗って数百年をさかのぼり、君の三代前のおばあさんを殺したとしたら、現在の君はいなくなると思うか」

という哲学的な会話にとても惹かれたのです。二人はたばこを吸いながら各々の考えを述べ、その内容は理解できるようなできないような…

この時私は、二人への憧れを抱きました。この気持ちを煽ったのは会話の内容のよりも白黒の画面に白く美しく映るたばこの煙だったような気がしてなりません。白と黒のコントラストがこんなに美しいなんて知らなかった。その中で会話をする二人は自分とはかけ離れた存在に見えたのです。

たばこは必ずしも映画の質を高める小道具ではありませんが、映画をより魅力的にすることができる素敵な小道具なのです。WHOの勧告はいち映画ファンとして同意できるものではありません。

そもそも、映画の表現を規制することで本当に未成年の喫煙を防ぐことができるのかどうか、私には疑問です。中学でたばこを吸う奴は映画を見なくても吸うし、吸わない奴は映画を見ても吸わないのではないでしょうか。メディアの影響は大きいというけれど、子供にだって分別はあるわけです。『風立ちぬ』の喫煙シーン騒動をくだらないと思った子供のほうが多いのでは?統計はとってないけど。

喫煙を始めた未成年のうち37%が映画などをきっかけにタバコを吸い始めたという調査結果もあるということです。

映画のワンシーンに憧れてたばこを吸いたくなる衝動に駆られる子供もいるでしょう。しかし、子供が簡単にたばこを吸うことが出来る環境のほうが問題なのでは?これは詭弁かな?どうしてもWHOの勧告に反対したい俺の精一杯の詭弁なんでしょうか?

『この空の花』…お日様の匂いがするね

戦時中の東京・杉並を舞台にしているにもかかわらず戦争の気配が薄い不思議な世界観。ここに文句をつけたくなる人はいるだろうが、監督・脚本の荒井晴彦は主人公の里子(二階堂ふみ)と市毛(長谷川博己)のやりとりで反戦を表現したかったのだと思う。そこに戦争の気配は不要だったのかもしれない。

物語は里子が恋愛を経験して大人になる姿を描いたものだ。旬の女優二階堂ふみの魅力がつまったアイドル映画だと捉えることもできる。

BGMを極力使わない静かな映画。子供たちは疎開し、騒がしいのは鶏や蝉の声、サイレンくらいのもの。この時期の東京にしかあり得ない状況だ。荒井晴彦が、もしくは原作者の高井有一はこの特異な状況と、エンドロールで二階堂ふみが朗読する「私が一番きれいだったとき」の融合を目指したのだろう。戦争が終わり、疎開先から返ってきた子供たち、復興によって東京はまた騒がしくなる。里子と市毛の妻のバトルも激しくなることだろう。

ラストシーンのクローズアップは不評らしい。その直前に里子の母が二人の様子を覗き見する短いカットが挿入されていたことを考えれば、世間体を気にすることなく市毛を愛そうという里子の意思表示だと考えることもできるが、怖いといえば怖い。不要な気もする。小津安二郎の演出を参考にした映画の最後に『大人はわかってくれない』風のラストを持ってくるのか…。

 

ところで、初夜を迎えんとする里子が庭先のトマトを市毛へ持って行き、彼がトマトを食べている時の

「お日様の匂いがするね」

というセリフに意表を突かれ、爆笑してしまった。なんてのんきなセリフだろう。里子は市毛がトマトを食べる姿を見て緊張と興奮の入り混じった感情に飲まれていたというのに。

『不屈の男 アンブロークン』はどういう映画なのかがわかる短文+追記

  1. 食人描写はない
  2. 反日ポスターは公式ではない
  3. ルイス・ザンペリーニをキリストに見立てた宗教映画
  4. 日本人の品位を貶める映画ではない。ドイツ国民は『イングロリアス・バスターズ』のランダ大佐に過剰反応したか?

この映画を見てわかったことは、アンジーは敬虔なキリスト教徒だということくらいです。

虐待を受ける捕虜のルイス・ザンペリーニも彼を虐待するワタナベ伍長も誰かの子であり誰かの親であるという描写があり、恨むべきは戦争で、戦争に弄ばれた軍人は赦すべきという主張がなされているのが『不屈の男 アンブロークン』です。

去年の今頃ヒステリックに叫ばれた反日キャンペーンはデタラメですよ。少しは自分で調べる癖をつけましょう。映画について語るときはまず映画を見てからにしましょう。じゃないと恥をかきますよ。

 

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『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』ドラマパートについて

炎上している『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』をIMAXで見てきました。とても良かった。

私は、一方的な批判に憤っています。確かにドラマパートはダメですよ。でも、それだけでダメだ、クソだ、これだから邦画は、ってのはおかしいでしょ。

ドラマパートは本当に特撮やアクションの良さをすべてかき消してしまうほど酷かったのでしょうか?いや、酷いには酷いけどさ、表現したいことはわかる。わかれば面白いと感じられる、かもしれない。だから、脚本家がドラマパートで何を言いたかったのかを書いてみようと思います。

 

シキシマうぜー→お父さんだもん 

シキシマはエレンの父親として登場するキャラクターです。エレンを挑発し、嫉妬させ、戦士として成長させる。巨人を前に臆するエレンに言い放った「飛べ!」という言葉は、「お前も大人になれ。通過儀礼を済ませろ」ということを意味し、シキシマはエレンが越えるべき父親だということを暗示しているのです。

 

映画は父を殺すためにある―通過儀礼という見方 (ちくま文庫)

映画は父を殺すためにある―通過儀礼という見方 (ちくま文庫)

 

 

シキシマが食べているりんごは禁断の実。恋人のミカサは俺が食って唾液がついたりんご食っちゃうけど、お前も食べる?って感じですかね。後編ではその点がどのように描かれるのかに注目しています。

 

 人妻おっぱい…→童貞捨てるのまだ早いんだもん

エレンが人妻のおっぱいを揉むのだって、単なる唐突なエロシーンじゃないですよ。

エレンは童貞です。壁の外が見たいんじゃーミカサの復讐じゃーと意気込むウブな童貞がかわいい人妻に誘惑されたら、そりゃ揺らぐじゃないですか。でも、エレンが決断する前に人妻は食われる。唐突に。

この世界では決断に悩むような時間はないということ、エレンが決断するのはまだ早いことを示しているシーンです。童貞を捨てることで大人になるのではなく、一人前の戦士になることでエレンが大人になる物語なんだということですね。

進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』はギリシャ神話や新約聖書からの引用が多く見られます。巨人が初めて人間を食うシーンは「我が子を食らうサトゥルヌス」(ゴヤが描いたサトゥルヌスには性器がない)、ソウダはダンテの『神曲』から「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」という一節を引用しています。

ギリシャ神話では、りんごは「誘惑・選択」の象徴です。作中に登場するりんごは2つ。1つは人妻からの誘惑、もう1つは戦士として戦うかどうかの選択。その先にはミカサの存在があります。ミカサのパートナーとして相応しいのはエレンなのかシキシマなのか?という物語が後編では展開していくものと思われます。

後編ではおそらく、エレンは重大な決断を迫られる。エンドロール中の予告編を見る限りでは、人間として生きるのか、巨人として生きるのか、みたいな決断になるのではないでしょうか。ひょっとしたらそこに選択権はないかもしれません。でもそれは、巨人に食われる側に「どの巨人に食われるか」という選択権がないのと同じことです。

 

このように、ドラマパートは何から何までダメなわけではなく、物語を語る上でとても重要な要素を描いてはいるのです。表現方法が良くないだけで、読み取れればエレンの物語をより楽しむことができる。それができないと『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』は楽しめないでしょうね。特にエレンとシキシマの関係性は重要ですから。実力のない脚本家が悪い。手に余ったのかな。

渡辺雄介は『20世紀少年』や『ガッチャマン』などのクソ映画の脚本を書いたことで知られるダメ脚本家。おそらく町山智浩さんから出たであろうアイデアをしっかり表現できていないことを考えると、やはり腕がない人だと評価せざるを得ません。脚本家選びに失敗したことが『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』の最大の失敗と言えるでしょうね。あと、ミカサは橋本愛が良かった。

「特撮・アクションは凄い。ドラマパートはデキが悪いけど、ダメなだけじゃなくて、アイデアは良かった。賛否両論ある『愛されるダメ映画』」

進撃の巨人』が原作じゃなければ、こんな評価だったでしょう。そもそも特撮・アクションがダメだよねーと言っている人はしょうがないですけど。

そういえば、サトゥルヌスは農耕神なんですって。核戦争が起きたことを暗示するようなセリフがあったことを考えると、巨人は自然界の怒りを象徴しているのかもしれませんね。最初に出てきたでっかい巨人とエレン巨人は火山の噴火みたいに蒸気を噴き出しているしね。わかりませんけどね。