カニ歩き映画ブログ

谷越カニが見た映画について書いてます

『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』ドラマパートについて

炎上している『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』をIMAXで見てきました。とても良かった。

私は、一方的な批判に憤っています。確かにドラマパートはダメですよ。でも、それだけでダメだ、クソだ、これだから邦画は、ってのはおかしいでしょ。

ドラマパートは本当に特撮やアクションの良さをすべてかき消してしまうほど酷かったのでしょうか?いや、酷いには酷いけどさ、表現したいことはわかる。わかれば面白いと感じられる、かもしれない。だから、脚本家がドラマパートで何を言いたかったのかを書いてみようと思います。

 

シキシマうぜー→お父さんだもん 

シキシマはエレンの父親として登場するキャラクターです。エレンを挑発し、嫉妬させ、戦士として成長させる。巨人を前に臆するエレンに言い放った「飛べ!」という言葉は、「お前も大人になれ。通過儀礼を済ませろ」ということを意味し、シキシマはエレンが越えるべき父親だということを暗示しているのです。

 

映画は父を殺すためにある―通過儀礼という見方 (ちくま文庫)

映画は父を殺すためにある―通過儀礼という見方 (ちくま文庫)

 

 

シキシマが食べているりんごは禁断の実。恋人のミカサは俺が食って唾液がついたりんご食っちゃうけど、お前も食べる?って感じですかね。後編ではその点がどのように描かれるのかに注目しています。

 

 人妻おっぱい…→童貞捨てるのまだ早いんだもん

エレンが人妻のおっぱいを揉むのだって、単なる唐突なエロシーンじゃないですよ。

エレンは童貞です。壁の外が見たいんじゃーミカサの復讐じゃーと意気込むウブな童貞がかわいい人妻に誘惑されたら、そりゃ揺らぐじゃないですか。でも、エレンが決断する前に人妻は食われる。唐突に。

この世界では決断に悩むような時間はないということ、エレンが決断するのはまだ早いことを示しているシーンです。童貞を捨てることで大人になるのではなく、一人前の戦士になることでエレンが大人になる物語なんだということですね。

進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』はギリシャ神話や新約聖書からの引用が多く見られます。巨人が初めて人間を食うシーンは「我が子を食らうサトゥルヌス」(ゴヤが描いたサトゥルヌスには性器がない)、ソウダはダンテの『神曲』から「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」という一節を引用しています。

ギリシャ神話では、りんごは「誘惑・選択」の象徴です。作中に登場するりんごは2つ。1つは人妻からの誘惑、もう1つは戦士として戦うかどうかの選択。その先にはミカサの存在があります。ミカサのパートナーとして相応しいのはエレンなのかシキシマなのか?という物語が後編では展開していくものと思われます。

後編ではおそらく、エレンは重大な決断を迫られる。エンドロール中の予告編を見る限りでは、人間として生きるのか、巨人として生きるのか、みたいな決断になるのではないでしょうか。ひょっとしたらそこに選択権はないかもしれません。でもそれは、巨人に食われる側に「どの巨人に食われるか」という選択権がないのと同じことです。

 

このように、ドラマパートは何から何までダメなわけではなく、物語を語る上でとても重要な要素を描いてはいるのです。表現方法が良くないだけで、読み取れればエレンの物語をより楽しむことができる。それができないと『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』は楽しめないでしょうね。特にエレンとシキシマの関係性は重要ですから。実力のない脚本家が悪い。手に余ったのかな。

渡辺雄介は『20世紀少年』や『ガッチャマン』などのクソ映画の脚本を書いたことで知られるダメ脚本家。おそらく町山智浩さんから出たであろうアイデアをしっかり表現できていないことを考えると、やはり腕がない人だと評価せざるを得ません。脚本家選びに失敗したことが『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』の最大の失敗と言えるでしょうね。あと、ミカサは橋本愛が良かった。

「特撮・アクションは凄い。ドラマパートはデキが悪いけど、ダメなだけじゃなくて、アイデアは良かった。賛否両論ある『愛されるダメ映画』」

進撃の巨人』が原作じゃなければ、こんな評価だったでしょう。そもそも特撮・アクションがダメだよねーと言っている人はしょうがないですけど。

そういえば、サトゥルヌスは農耕神なんですって。核戦争が起きたことを暗示するようなセリフがあったことを考えると、巨人は自然界の怒りを象徴しているのかもしれませんね。最初に出てきたでっかい巨人とエレン巨人は火山の噴火みたいに蒸気を噴き出しているしね。わかりませんけどね。