カニ歩き映画ブログ

谷越カニが見た映画について書いてます

ミュージシャンのアルバムを映画化するということ

先日、Daft Punk松本零士がコラボした『インターステラ5555』という映画を観た。Daft Punkの大ヒットアルバム『Discovery』の楽曲を曲順通りに使い、松本零士印のSFを語ろうという映画。

ライブシーンの躍動感のなさは感動を覚えるほどだけど、楽曲の良さなのか目が慣れてきたのか次第に面白くなってく。脚本はダフパンの二人。物語はものすごくチープな『キングコング』の焼き直しだが、なぜか心が震える。酷いライブシーンで覚えたものとは別物のものだ。それだけ音楽に力があるという表現は陳腐だろうが、ともかくトランス状態になる。

ミュージシャンのアルバムを映画化するという試みは珍しいものではないのだろうと思って調べてみたら、The Whoの『トミー』、Pink Floydの『Pink Floyd The Wall』くらいしか出てこなかった。ビートルズザ・タイガースの映画はミュージシャンが主人公のフィクションだから除く。

 音楽で語るか、映像で語るか

2本のうち『Pink Floyd The Wall』を観て思ったことは、このような試みで肝心なのは音楽で語るのではなく音楽を使って物語を語ったほうが良いということだ。

インターステラ5555』は物語性のある映画だが、楽曲そのものに音楽性はない。インストの曲が多いし。だからダフパンの二人は必死こいて脚本を書かなくてはいけなかった。映画として成立させるために必要不可欠な努力だ。

しかし、Pink Floyd The Wall』の場合は事情が大きく異る。世界で最も売れた2枚組アルバムの『The Wall』の一部楽曲と未使用曲を使ったこの映画は、音楽に物語性がありすぎる。なにせコンセプトアルバムといえばPink Floydだし、その代表作『The Wall』なのだ。ロジャー・ウォーターズが感じた世間と自己の乖離を表現した、重く暗い内容のアルバムを映像化しようとなると、これはプロモーションビデオ化を避けられない。音楽と映像の両方にメッセージ性をもたせると双方がケンカして酷いノイズだらけの映画になるだろうし、楽曲の良さを活かそうとすれば映像に力がなくなる。監督のアラン・パーカーは前衛的な映像に楽曲を絡み合わせるで作品の世界観を表現しようとしたが、失敗に終わってしまった。「Another Brick In The Wall」が使われたパートは良く出来ている(オチョナンさんみたいなお面をかぶった中学生がたくさん出てきて合唱する)が、他は総じて退屈だ。プロモーションビデオの域を出ていない。本作のためにロジャー・ウォーターズが書き下ろした脚本はわずか30ページほどしかなかったそうだ。製作陣は楽曲が映像を補強してくれると信じて疑わなかったのだろう。

映画という媒体はメッセージ性の強い音楽との相性があまり良くないのかもしれない。ここぞ、という場面で使ってこそ効果が出る。全編にわたって楽曲がメッセージを訴えてくるPink Floyd The Wall』のような映画には、アラン・パーカーの「この映画にはユーモアが足りなかった」という言葉が重くのしかかる。